FC会報誌「C.K.Press」(1997年~)に掲載したものを、 月に1度連載します。(画像が不鮮明ですが何卒ご容赦下さい)
昔々第二回
校庭で聞いたビートルズ!!
さて、時は一九六四年の夕暮れ時、所は文京八中の校庭での出来事でありました。中学一年生になっていた幸雄少年はここで運命の出会いをするのでございます。その時彼は偶然にも耳にしてしまったのです。そう、「本物」のビートルズの“Please Please Me”を。そこで彼は金縛りにあったように体が動かなくなり、耳は釘付け。
「何なんだこれは?!全然違うじゃないか!今まで僕が聞いてきたポップスってなんだったんだぁああああ!」 それほどの衝撃を受けたのでございます。
この出来事は文字通り、彼の運命を決めてしまったのでございます。
そこで幸雄少年は、友人坂本君から“Second Album”を買い取り、聞きまくる毎日を過ごしたのでございます。
今考えるとこの坂本君、当時新譜であった“A Hard Day Night”を買う資金が欲しくて幸雄少年に“Second Album”を売ったと思われるのでございます。
ところで、幸雄少年は凡人とはだいぶ違う空恐ろしい少年であったのでございますが、その理由が次々にはっきりと現れてくるのでございます。先ずはその驚異の耳。本物のビートルズを聴いて初めに思ったことが「ベースがかっこいい」と言うことだったのでございます。やはりこんな耳をしていれば、将来音楽家になるという道は決まっているも同然。そして、幸雄少年は「よし、ベースをやろう!!」と心に固く誓うのでした。
程なくして中学二年になった幸雄少年は、赤羽の「ミドリヤ」にて、テスコのベース(いかりや長介モデル)金二万一千円也を月賦で購入。当時の国産のベースとしては一番高価なものだったそうであります。
さらにまた、驚異の才能を発揮するのが、いきなりベースが弾けた、と言う事実でございます。普通いくらギターが弾けるからといって、似ているようでいて実は全く異なる楽器であるベースを、初めから弾けるなんてぇ事は普通ないのでございます。
それからそれから、幸雄少年の中学校二年目が終わろうとしている頃、彼は初めてのバンドを組むのでございます。メンバーは以下の四人。ドラマーは一つ年上のブラスバンド部の部長でありました小西君。彼はパン屋の息子でありました。ギターは同級生の高山君。彼は呉服屋の倅。そしてもう一人のギターは二つ年上の川瀬君。彼は近藤家の三軒先に住まい、「ゆぅきぃちゃん、ギターおせーて」と幸雄少年にギターを教わりに来ておりましたそうでありました。
そんなバンドの練習場所はパン屋「小梅堂」の二階。そう、つまり小西家でありました。当時そこは近所では、練習の音がうるさいので有名だったとか。ある日など、近所から苦情が出たらしく、お巡りさんが来て、騒音を計りましたところ、一番うるさいシンバルの音は計らず仕舞いだったので、口頭注意のみで免れたこともあったのでございます。
その小西家には三味線を嗜まれるお婆さまがいらして、たいそう幸雄少年のファンだったとか。三味線を教わったり、誕生日に招かれたりもしたのでありました。今さらりと書きましたが、なんと幸雄少年は三味線まで弾けたのでありました。
不思議に思って聞いてみるってえと、どうも近藤家の人々は観察眼が鋭いらしいのであります。本人だけでなく、お兄さまも見ただけで出来るようになったことがおありとか。本人は楽器以外にもスキー、ローラースケート、散髪なども玄人はだしの模様。
さてそんなバンドも人前で演奏する機会がやってまいりました。舞台は小西君の叔父様がやっておられたダンススタジオのクリスマスパーティ。このバンドはここで「コニーズ」と名付けられたのでございます。そこではベンチャーズのメドレーや、もちろんビートルズの曲を演奏し、なんとギャラを貰ったのでありました。もちろん生まれて初めてのことでありました。幸雄少年はギャラの額よりも、一緒に貰った森永のエンゼルパイの方が印象深かった様でございます。何故なら当時が新発売であったからでございます。
野球か音楽か・・・選択の時
ところで、幸雄少年は音楽だけやっていた訳ではなく、もちろん野球もやっておりました。重いプロテクターを着けている捕手であるにもかかわらず、俊足であったため、ランナーを追い越して一塁に入り、アウトにしたこともしばしば。
とある試合の日、幸雄少年は守備についている途中、ショートバウンドを右手の中指の先端に当ててしまい、骨折してしまったのであります。これが二回表もしくは裏。しかし、責任感の強かった幸雄少年は監督に、「近藤、お前しかいないんだ」と言われ、試合終了まで出場し通しました。終わった頃には指は二倍に腫れ上がり、骨は第二関節にまでヒビが入っておりました。これにはさすがの監督も青くなっておられたようでございます。
そんな幸雄少年の中学校通算打率は四割七分二厘。しかもデッドボールなし、と言うすさまじいものでございました。幸雄少年の才能と努力もさることながら、コーチの頭を使う野球をするという教育のおかげもあったかもしれません。何故ならこのコーチ、当時では珍しかったフォーメーションや、サインプレーを取り入れた練習をしていたのでございます。
さていよいよ幸雄少年も中学三年生になりまして、人生の選択を迫られる時期に入ってまいります。
コニーズを結成し、同じ頃オリジナルソング(この頃創った曲は近日発表予定もあるかもしれません。お楽しみに!)も創っていた幸雄少年は、「もう、なるんだったらプロミュージシャン」と決めておりました。もちろんプロ野球選手という道も考えないでは無かったのですが、体が小さかったのと、ドラフト制度が出来てしまったために大好きな巨人軍に入れない!と思い、野球の道は断念したつもりでありました。
幸雄少年はビートルズに憧れていたのではなく、ビートルズと同じになりたかったのであります。何故なら、彼らはライバル、彼らだって人間だ。彼らに出来て僕に出来ないことはない!出来なかったら悔しいじゃないか!と思っていたのでありました。
この、「悔しい」という思いが今でも彼を突き動かし、進んでいく原動力になっているのでございます。
さて、丁度時間となりました。次回はいよいよ怒涛の高校生時代に突入いたします。
乞うご期待。