【連載21】チャック近藤の昔々

FC会報誌「C.K.Press」(1997年~)にインタビュー掲載したものを、 月に1度連載します。(画像が不鮮明ですが何卒ご容赦下さい)

昔々第21回

前回はチョット複雑な時期の「昔々」でした。チャックさんもあまり多くは語りたくなかったようでしたね。今回は大いに語ってもらいましょう。え、そうでもないのー?

ひょんな事から“Ladybug”誕生!

1980年代に入り、バンドも辞め、初心に返り、充電期に入ったチャックさんでした。「こんな時期にはオリジナルを書き溜めて、これからどのような音楽活動をするか考える時期になっていてね、またそれも楽しいものだったんだよ。」とチャックさん。でも周りはそうはさせなかったようで、事務所から早速のお電話。1月3日に辞めたばかりなのに中旬には「デュエットの仕事があるんだけれど、1ヶ月だけやってくんない?」だそうで、しょうがないから“Revolver”、いや“Ricky & Revolver”を一緒に辞めた浅川到(いたる)さんというギタリストもやると言うので「上野」の「カラオケ」のはしりのパブで、何と2月からお仕事と相成ったそうであります。演奏曲目の内容は「何でもあり」だったようで、日本のヒット曲なんぞも演奏したそうであります。へーっ。

気心が知れた仲間だったのでリハーサルも少なに仕事に入れたそうで。でも久々のMCもしなければいけない。浅川到さんは日頃から無口な男でギターをひたすら弾くのみ。歌うのはチャックさんだけ。「ま、僕が喋らなきゃならんよね。それが久々で緊張しちゃってさ。それで二人でレイバンのサングラスを掛けてやったのよ。ハハハ。人間って面白いよね。目を覆うと平気で喋れるようになっちゃうんだから。いい加減だけど」。えっ? チャックさんて昔からMC得意だと思っていましたよ。ねぇ皆さん。「いやいや。そしたらね、そこには司会者が居たんだけれど、その人に『レイバンズ』なんて言われちゃって参ったよ」。そう言えば以前はよく「レイバン」のサングラス掛けていましたよね。この時からなのかな? 「とにかくそんな名前は嫌だし、事務所からも名前をつけるように言われててね、んじゃぁってんで以前から考えていた“LadyBug”(てんとう虫)で行くことにしたのよ。だから最初の“LadyBug”は2人から始まったんだよ。ジャンジャカジャーン!」。…ハイ、そうですか。でも大方の人たちは、この“LadyBug”と言う名前はBeatles(かぶと虫)にちなんだ名前だと思っていますよね。違うんだ。「てんとう虫」というロゴになりやすく“Lady”という優しそうなフレーズと、一言で言えるというところから、チャックさんは新しくバンドを作ったらと名前を考えていたそうです。なるほど。

「眠れぬ夜」と第2期の“LadyBug”の始まり始まり!

その“LadyBug”はお店から「もう1ヶ月」という要請を断り、2月だけのお仕事で終了したそうであります。その後は文字通り(?)充電期間。でもやはり収入が無ければ生きて行けません。遠距離陸送に引越し運送屋。真夏の引越し屋はアルバイトなのに何故か社員を差し置いて、社長さんに責任者にさせられてしまったそうであります。不手際があれば謝りに行かされるし、真夏と言うことで背中には一面汗疹が出来てしまったりで大変だったそうであります。「あっ! 総入れ歯」といつものヤツ。この年の真夏には3夜連続の大きな地震が有ったそうで、新聞では「眠れぬ夜」と報じたそうであります。皆さん覚えていますか? チャックさんは「家のカセットがバラバラ落ちてきて、タンスの扉は開くし、結構凄かったんだよ。」と言うのですが、私を初め若い方は記憶が無かったり、生まれてなかったり…1980年ですよね。チョット…。

涼しくなってきたところで“R”バンドを辞めたドラマーとギタリストがチャックさんに仕事を求めてきたそうで。じゃぁって事で10月から、またしても「上野」でのお仕事が決まりました。決まったから良いものを、オーディションが近づいたところでギタリストがドタキャンだったそうで、困っている間もなく、やはり“R”バンドを辞めたベーシストが入団希望で何を逃れたそうであります。でもチョット待ってください。チャックさんベースですよねぇ。「んだから参っちゃったんだよ。結局僕がギターを弾く羽目になっちまってね。慌てて格安のガッチョン・メーカーのギターを購入してオーディションに臨んだんだよな」。でも合格して良かったですね。で、今度は3人の“LadyBug”が誕生したのですね。「でもね。ギターでなんか仕事したこと無かったんで最初の1ヶ月はビビリまくっていたんだよ。」って1ヶ月で落ち着いたんですか? でも何とか落ち着いてよかったですね。

運命の時が…ジョン・レノン射殺される!

新しい「上野」での仕事も軌道に乗り、ギタリスト・チャックは「何とかごまかせるようになって来た」そうで、お店でも評判が良かったそうであります。

その仕事も3ヶ月目を迎えた12月8日、運命の時が来てしまいました。チャックさんは全然知らなくて、お店に着いてからドラマーの大西洋さんに聞いたそうで、その時の印象は「もちろん驚いたけれど、何だかピンと来なくてね。漠然と、あぁこれ以上ジョンの作った曲は増えないんだ。」と思ったそうであります。確かにそうですが、悲しいとか、悔しいとか、そういうのは無かったんですね。「うん、結構冷静に受け止めてしまったな」。そんなもんですかね。意外にもチャックさんの周りはドタバタとすることも無く、ジョンの死を受け入れてしまったそうです。今でもチャックさんは「ジョンを語るのならビートルズ時代の初期のジョンを聴かなければ語れない」と言っていますが、更に、この1980年はビートルズの活動が止まってから10年が経ち、ようやくジョンが久々に音楽を見直し、“Double Fantasy”と言う(半分)素晴らしいアルバムを作った矢先だっただけに、悲しさよりも残念さを強く感じた事件だったそうであります。

だがしかしジョン・レノンは亡くなってしまったのです。チャックさんは子供の頃から聴き続けたビートルズは完全に復活の可能性がなくなってしまった瞬間だったのです。「崇拝したことも憧れた事も無い。僕にとってビートルズはずーっとライバルだった。」と常日頃言っています。でも、この瞬間にそのライバルが復活の可能性を無くし、完全にビートルズを過去のものにしてしまった出来事だったのです。奇しくも1年後にビートルズの音楽を引き継ぎ、ビートルズ・ファンのために毎日演奏を続ける事になるとは思いも寄らなかったでしょう。だが、こうとも言えるのではないか、「ジョン・レノンが暗殺されたことにより、今のチャック近藤がある。」と。「その時歴史が…」ではないが、六本木にビートルズ専門店ができるまで後1年。それまでにどの様な出会いがあり、どの様なつまづきがあり、どの様な葛藤があったのか! いよいよビートルズサウンズのスペシャリストへの道が開けます。次回もお楽しみに!